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日本刀のルーツ・蕨手刀(わらびてとう)【平安時代】2015.11.06 Friday
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蕨手刀は古代日本の鉄製の刀の一種で日本全国で200点以上が確認されています。
その殆どが北海道や東北地方からの出土で日本刀の起源と考えられます。
★(宮城県中鉢美術館前の碑、写真右下の文)
北の鉄文化
不毛と云われた北の鉄文化に、在野の研究者佐藤矩康博士(医学・工学)が医師の立場から非破壊によるエックス線CT法撮影で、出土刀の解明に初めて試まれ、東北・北海道からサハリン・シベリア・沿海地方、それに紀元前、西アジアから北方ユーラシアにかけて強大な遊牧民族国家を形成していたスキタイへと道を開いた事です。
それは、再三、病に倒れながらの研鑽でした。その支えになったのは、先生が生まれ育った北の大地と先祖の故地(宮城県岩ケ崎)への思いからです。そこは、その昔、蝦夷が朝廷と対峙した要衝で、意に反し服う身になった故郷の先人への哀感の情であり、敗者の側に立った歴史観からです。
そして、いつも先生のそばに女医の和子夫人が付き添われていた事が、この研究を大成させたものと、私は思います。
そして、この地に佐藤矩康博士夫妻の像を建立します。
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安倍氏、清原氏から藤原氏へ【平安時代〜鎌倉時代】2015.11.06 Friday
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大國魂神社(おおくにたまじんじゃ・東京都府中市)
★(右上写真の文)
源義家公とけやき並木
国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家公父子が 奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平五年 (1062年)勝利の報賓として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
その後、徳川家康公により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲九 メートルに及んだ大けやきは、源義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神 木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。
その大けやきも、度々の暴風雨と、 近くは昭和二十四年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内 の出火で枯死してしまった。
義家公は清和源氏に党する河内源氏の嫡流として、七歳の時、 石清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武 勇をあらわした公の代に、源氏の武威が最盛期を迎えた。
(後略)
※前九年の役(1051-1062)、後三年の役(1083-1087)は東北の地で安倍氏、清原氏が滅び、藤原氏の時代が開かれた戦でした。
※現在大國魂神社の社殿は北向きになっていますが、昔は南向きだったそうです。
神社のホームページによると、「朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威で治める」として、1051年に源頼義(義家の父)が建て替えさせたとの記録があるそうです。抱返神社(だきがえりじんじゃ・秋田県仙北市)
★(上写真の文)抱返神社の由来
康平五年(1062・9・7)前九年の役で源義家が盛岡厨川(くりやがわ)の柵の安倍貞任を攻める為此の地より玉川の川筋を進もうとし川の流れの静かなる事を願って持仏を祀って祈願した
祈願を済した義家は再び持仏を懐にして厨川の柵を攻めたこの戦いで義家は勝利を治めここまで無事に帰ることが出来たこれを喜んで義家はこれも仏のお陰と改めて堂宇を建て懐を持仏を祀ったのが懐帰り神社の始まりとされつまり祈願した持仏を懐に入れお守りとして持って行き再び還って来たから「懐き還る」「懐還神社」と言い伝えられています
尚明治維新後に抱返神社と改書された元禄七郡絵図では村の鎮守は水尺(みずしゃく)明神として図示されているが現祀神は水波能賣神を祀っています
また往古より龍神・水分神・養蚕の守護神として遠近各地より崇敬を仰いで居ます
康平五年(1062)に建てられたと言う堂宇もその後幾度か建て替えられた様で延宝三年九月十六日(1676)社殿および長床を建てて若松村鎮守とした
敬白
(上写真)抱返神社の奥に続く景勝地抱返り渓谷
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源義経伝説【平安-鎌倉時代】2015.11.06 Friday
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源義経首洗井戸(神奈川県藤沢市)
★(上写真の文)
伝 源義経首洗井戸
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。
義経の首は首実検ののち片瀬の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。
(後略)※同じ藤沢市にある白幡神社には、『神社前の小川に義経の首を載せた金色の亀が現れ村人たちが驚いていると、見物人の中から貴公子姿の義経が出てきて、頼朝公に追われて首を討たれたがこのままでは浮かばれないので葬ってほしいと言うや、亀も義経も消えた』という伝説が残っているそうです。
彡東北、北海道に残る義経伝説彡
鎌倉に運ばれた義経の首は、日数がかかり過ぎて判別不能だったと言われ、家来が身代わりになったという説もあります。
その後義経が北方に逃げたという伝説になり、東北や北海道には義経を祀った神社などが多数残されています。
★奥州平泉の黄金商人金売吉次3兄弟(福島県白河市)
義経を京から奥州平泉に案内した人物として知られる。
3人は往来の途中白河の関付近で盗賊に襲われて殺害されたため白河に葬られた。
義経は吉次兄弟の霊を弔い、その霊を近くの八幡宮に合祀した。3兄弟の父は炭焼きをしている時に金鉱を掘り当てて長者になった炭焼き藤太で、その墓は現在の宮城県栗原市に残されている。
★えな姫神社(福島県白河市)
義経は、兵法を学ぶため、京の陰陽師・兵法家・鬼一法眼に身許を偽って会い、 鬼一の娘皆鶴姫に近づき、その手引きによって秘伝の書を手に入れ習読し奥州へ帰った。
平家軍を滅ぼした後追われの身となった義経は平泉に逃亡するが、皆鶴姫は義経を慕って奥州に向かう途中病に倒れ命を落とした。
姫の死を悼んだ村人が社に祀ったとされる。★皆鶴姫の碑(福島県会津若松市)
義経を追って奥州に来た皆鶴姫は背負っていた義経の子を盗賊に殺され、悲しみのあまり河東町の難波池に身を投げてしまった。
江戸時代、会津藩主がこの話に感動して弔いの碑を建てたが、この碑は今も良縁を授かると信じられ供養祭も開かれている。
★観音寺(宮城県気仙沼市)
皆鶴姫は兵法書を義経に渡したのが父に発覚して船で流され、気仙沼市の母体田海岸に漂着。その後義経の子を産んだが、産後の日だちが悪く容体が日に日に悪化。
平泉で過ごしていた義経は皆鶴姫の夢を見、正夢と信じて馬を走らせ急いで姫のもとに向かったが、たどり着いた時には息を引き取っていた。
義経は、子どもを地元の人に頼み平泉に戻ったが、後に気仙沼に寺(観音寺)を建立し、皆鶴姫を弔ったとされる。
寺の観音堂の逗子内には皆鶴姫がかかえていた観音像が祀られ、漂着した際の器舟の船底、義経が使ったという「笈」、弁慶が袈裟を掛けたという「袈裟がけの岩」などが置かれている。
★佐藤継信・忠信兄弟(福島県飯坂市)
義経が平泉から平家追討に向かった際、大鳥城主(福島市飯坂)佐藤元(基)治は息子の継信・忠信の兄弟を従わせた。
継信は四国屋島の戦で、敵将が義経に向けて射った弓矢を身を呈してかばい討ち死に、 忠信はその後追われる身となった義経を京から脱出させるため活躍したが鎌倉の兵に襲われ、その目前で腹をかき切り壮烈な最後をとげた。2人の遺品は弁慶によって家族に届けられ、菩提寺である医王寺の宝物館に所蔵されている。
また山形県米沢市には佐藤家の分家にあたる居館跡があり、その近くの常信庵から兄弟の母である梅唇尼の即身仏(ミイラ)が発見されている。
★下馬の碑(福島県白河市)
関山満願寺は、義経等が訪れ平家とのたたかいの戦勝を祈願し、神馬を奉納した寺と伝えられている。
この山の中腹にある下馬の碑は、弁慶が書いたものと伝えられる。▲義経が戦勝を祈願したと伝えられる桜(福島県白河市・白河神社)
★高畑に落ちた関守(秋田県大曲市)
兄の頼朝に追われた義経一行が加賀安宅の関(石川県)を通過した際正体がばれそうになり、弁慶が義経を打ちたたいた。
関守の富樫左エ門は同情して関を通したが、これがわかってしまい鎌倉の怒りをかって羽州の高畑(秋田県大曲市)に落ち延びた。
子孫は後にここで城主になった。
★龍福寺(福島県南会津町)
落ち延びて来た義経一行が通った際、家臣の渡邉内膳守義政がこの地にとどまり開山したと伝わる。
★五郎兵衛飴(福島県会津若松市)
平泉に落ち延びる途中義経一行は五郎兵衛飴という店に立ち寄り飴を所望した。
その際弁慶が書いた借用証文が残されている。
▲五郎兵衛飴と証文の写しや由来が印刷された添付の説明書。
証文の原本は火災で失くなったそうです。
飴は固いものではなく、ゼリーのような柔らかい食感でした。
★荒人神社(福島県猪苗代町)
渋谷荒人は源頼朝の命を受け、磐梯山のふもとで逃避行中の義経一行を待ち伏せしていたが、ひそかに義経に同情を寄せていた。
一行が現れると武蔵坊弁慶に一騎打ちをいどみ、わざと敗れて討たれ一行を逃がした。
これを知った村人は感銘を受け、荒人神社を建立して渋谷荒人を祀った。
★仙人堂(山形県最上郡戸沢村)
義経一行が船で最上川をさかのぼった際途中岸に上がって休憩をとった。
一行の中にいた常陸坊海尊はここで一行と別れて仙人堂を建立し、修行をしながら追ってくる敵を防いだ。
★瀬見温泉(山形県最上町)
義経一行が頼朝の追っ手を逃れ平泉に向かう途中、身重だった妻の北の方が産気づき、亀割山(かめわりやま) にある観音堂で北の方を休ませた。
そこで、弁慶が産湯を探して沢へと下り、湯煙立ちのぼる川辺の大岩をなぎなたで砕くと温泉が噴き出たという。
まもなく生まれた亀若丸の産湯にこの温泉を使い、この地で養生した。
瀬見温泉の名は、岩を砕いた弁慶のなぎなた「せみ王丸」に由来するとも言われる。
★鳴子温泉姥の湯(宮城県大崎市)
出羽の国に入った義経一行は、身重だった北の方が産気づき、出産。何とか男の子を産み落としたが、亀若丸はなかなか産声を上げない。急ぎこの地にたどり着き、温泉につかると初めて産声をあげた。
それ以後、この土地は「啼子(なきこ)」と呼ばれるようになり、それが現在の「鳴子」になり、その湯が亀若丸の産湯、姥湯つまり「姥乃湯」に変化したとされる。★尿前(しとまえ)の関(宮城県大崎市)
尿前の関は陸奥と出羽を結ぶ峠越えの要衝として知られていた街道の番所だったが、生まれたばかりの亀若丸がはじめて尿をしたのがこの地だったので尿前と名付けられた。
★真人山(秋田県横手市)
義経が奥州平泉に下る際、真人山の古道で岩肌の上に咲くヤマザクラの枝を折ってしまった。その時、齢80程の姿に身をやつした桜の精に叱られ、金三貫を差しだし謝罪したという伝説。
この桜は「三貫桜」「銭かけ桜」とも言われ、現在も真人公園から男亀山(おがめやま)に向かう途中、山の上に佇んでいる。
★袖の渡り(宮城県石巻市住吉公園)
北上川の渡船場の遺址。
義経が藤原秀衡を頼って平泉へ行く途中、渡し船に乗ったが船賃がなく、着衣の片袖を切って船頭に与えた。★洞雲寺の銅鐘(宮城県仙台市)
藤原秀衡は義経が平泉に向かっていることを聞き、義経を守るため道の一里ごとに銅鐘をつるして警戒にあたった。
洞雲寺の鐘がそのひとつと言われ県の文化財にも指定されている。
★大宝寺・薬師堂(山形県鶴岡市)
一行が大宝寺の薬師堂で休息をとっていると、地元の領主・田川太郎実房の使いが来て子供の病気治療のための祈祷を依頼した。
修験者のふりをしていた一行はこれを断れず祈祷をおこなったが、不思議と子供の病気が治った。
★一行が平泉に到着後、藤原秀衡は義経に桃生、牡鹿、志田、玉造、遠田の5郡(宮城県)を与え、家臣たちには胆沢、江刺などの地(岩手県)を与えた。
★小原温泉(宮城県白石市)
義経の家来・常陸坊海尊が発見したものといわれる。
海尊は村人に温泉利用を勧め、自らも毎朝白石から往復して入浴した。
常陸坊海尊は園城寺または比叡山の僧であったとされるが、義経の最後の場所である衣川の戦いでは、義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていたため生き延びたと言われる。
★判官森・胴塚(宮城県栗原市)
義経の自刃後、首は首実検のため鎌倉へ送られ、胴部は家臣によってこの地(山の中腹)に埋葬されたと伝えられており、その森を判官森と呼ぶ。
山頂部に義経を守るように広がる森は弁慶森と呼ばれる。★妙好山 雲際寺(岩手県奥州市)
文治2年(1186)に義経が主従12人と正妻北の方と共に奥州平泉に下って来た際、北の方により当寺が再興された。
敗れて後、遺体が運び込まれたと言われ、随身の僧より義経と北の方の位牌が安置された。
★判官堂 (義経神社)(岩手県紫波町)
義経の脇差と義経が弓の的場を造って練習した時に用いた弓が、ご神体として祀られていた。
別当の家伝によると、「義経様は釜石の方へ出てそこから八戸へ行った」と語りつがれている。
★「杉目太郎行信」の供養碑(宮城県栗原市)
津久毛城跡の主郭西側に杉目太郎行信の供養碑がある。「源祖義経神霊見替」と刻んである供養碑は明治期に建てられたが、古くから杉目太郎行信が義経の身代わりになって死んだと語り継がれている。
太郎行信は義経の母方のいとこで、年や背格好が義経と似ていたため、義経の影武者となっていたと言われている。また行信は、信夫庄司佐藤基治の子供で、福島市の杉妻(すぎのめ)城の城主だったとも伝えられる。★観福寺(岩手県一関市)
平泉を脱出した義経一行がこの寺に宿泊し、その礼として義経四天王の一人、亀井六郎重清が置いて行ったとされる笈(おい)が伝わる。
★風呂家(岩手県遠野市)
一行が3日間滞在し風呂のもてなしを受けた家。義経は感謝のしるしに当家に風呂の姓を与えた。
★駒形神社(岩手県遠野市)
義経の愛馬『小黒号』が死んでしまったため、祠を建て、ねんごろに葬った。それ以来、この神社を駒形大明神とか駒形神社の名で呼ぶようになった。
★中村半官堂(岩手県釜石市)
義経一行は途中、中村にある八幡家に宿泊しその礼として鉄扇を置いて行った。同家の先祖が祠を建て祭神を祀った。それがこの判官堂であると伝えられている。
祠に安置されている衣冠束帯姿の石像は源義経であるという。
★法冠神社(岩手県釜石市)
一行が海に出て船を待つ間逗留したとされる場所。神社名は義経の役職名だった判官をもじったもの。
★鈴ヶ神社(岩手県宮古市)
義経の内妻・静御前は男子を出産した際頼朝によって殺されてしまったとされているが、実は子供はひそかに救出され平泉に送られた。
藤原秀衡は家臣の佐々木四郎高綱に依頼して養子とし、子供は佐々木四郎義高と名付けられた。(82歳まで生きて子孫を残した)
その後静御前はスズカと名を変え平泉にたどり着いて義経と時々会っていたが、第2子出産の際母子ともに亡くなってしまった。
村の人々は鈴ヶ神社を建てて静御前を祀った。
★黒森神社(岩手県宮古市)
神社の名は義経の名前である九郎からつけられた。
義経主従は3年3ヵ月にわたって黒森山に籠もって行を修め、般若経六百巻を写経して奉納した。これを受け取った地元の人は体調が悪い時にこの字を切り取って薬代わりに飲んだという。
★畠山神社(岩手県田野畑村・久慈市)
久慈に入る手前の諏訪ノ森で、畠山重忠の軍勢が待ち受けていた。
このため義経一行は、卯子酉山から、西へ向かって北上山地を進み一戸町を経て東へ進み、山形村から久慈川沿いの川目(久慈市)を経て、同市内に入ってきて吉田城に布陣した。
重忠が、この地で愛馬を失ったので、その鐙(あぶみ)を埋めたのに因んだという。
★清河羽黒権現(岩手県普代村)
食料に困った一行は普代村で稗を借り証文を残したという。
普代村にしばらく滞在した一行はその後北を目指し旅立った。
一党の中に病人がおりこの地で没したため亡骸を祀り、それが現在の清河羽黒権現だという。
★鵜鳥神社(岩手県普代村)
義経はこの地で金色の鵜が子育てをしているのを見付けると、神鳥に違いないと感じた。
7日7夜にわたって海上安全、武運長久、請願成就を祈ると神からのお告げがあり、感謝した義経は卯子酉大明神をここに祀った。
★種差海岸(熊野神社)(青森県八戸市)
海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。
現在の種差(たねさし)海岸から程近いところに上陸後休憩したと言われている「熊野神社」という小さなお宮がある。
★源治囲内(げんじかこいない)(青森県八戸市)
種差海岸上陸後、義経が仮住まいした屋敷があったことからこの名が付いたと言われている。
世話になった感謝の印として「判官」と名乗ることを許したので、現在も「法官(ほうがん)」という苗字の住民がいる。
また、館の近くに水汲みに来た娘と恋に落ち、女児を授かったというがその後のことは伝えられていない。
★館越(たてごし)(青森県八戸市)
源治囲内を後にした義経は、市内を流れる新井田川(にいだがわ)をさかのぼり、館越山と呼ばれている場所に居を構えたと言われている。
この山の由来は、後に義経が高館に引越しする際に、館を引越ししたところという意味でこのようになったと言われている。
★小田(こだ)八幡宮(青森県八戸市)
新たな館として館越山より展望が開けた高館山に居を移して以来、一体が「高館(たかだて)」と呼ばれるようになったという。
また、高館山の麓にある小田八幡宮には、義経が写経したと言われている大般若経が保存されており、京都から持参した毘沙門天を安置する毘沙門堂を立てたと言われている。
義経がこの周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名されたといわれている。
★法霊山轗神社(ほうりょうさんおがみじんじゃ)(青森県八戸市)
義経は正妻(京都の公家、久我(こが)大臣の娘)を伴って八戸まで逃げ延びてきたが、1205年4月にその正妻が亡くなった。その亡骸を当時京ケ崎と呼ばれていた場所に葬ったと言われているが、現在は、轗(おがみ)神社になっており、久我大臣の娘が使用したと言われる手鏡が保管されている。(同神社には、源義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝わっている。)
★長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)(青森県八戸市)
義経が藤原秀衡死後、脱出先を探るため、家臣の板橋長治(いたばしちょうじ)を八戸に派遣した。板橋は、市中心部の小高い丘に居を構えた。
当初は長治山だったらしいが、現在は長者山新羅神社となっており、近くには同じ源氏の流れを汲む八戸藩主南部家墓所「南宗(なんしゅう)寺」もある。
なお、周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所ということから名づけられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されている。★帽子屋敷(ぼうしやしき)(青森県八戸市)
義経が、藤ヶ森稲荷神社に来た際に、烏帽子を掛けたといわれたことから、その一帯が帽子屋敷と命名されている。
現在は、芭蕉堂公園になっている。
★矢止めの清水(青森県八戸市)
義経が、高館からどこまで遠くへ矢を放つことができるか弁慶に命じたところ、4キロも離れた馬淵川を越えたところへ届いたという。
その矢を抜いたところ、水が湧き出たことから、矢止めの清水と言われている。
★龍馬山 義経寺(青森県東津軽郡外ヶ浜町)
寛文7年(1667)、円空仏で知られる円空がこの地を訪れたとき、海岸の奇岩の上に光るものを見た。
その岩は、かつて義経がこの地に逃れ至ったとき、荒れ狂う津軽海峡を前に観音像をまつり3日3晩の祈願をして竜馬を与えられ、海の上を飛んで行ったと伝えられる岩(厩石)で、円空の見た光はその観音像だった。
円空はこのいわれを霊夢で知ると、観音像を刻み、観音堂を建立してまつった。これが義経寺の始まりとされる。
竜飛岬という地名もこの話からつけられたとされる。
★鹿戸野沢神社(秋田県大館市)
平泉から北をめざした義経の一行に遅れをとった家臣の亀井六郎重清が後を追う途中、この地のケヤキの洞穴に御守りにしていた観音像と秘巻を納めて去った。
それを村人が発見し、堂を建てて祀ったのがこの神社の起こりとされる。
★鈴木家(秋田県羽後町)
平泉で藤原泰衡に襲われた一行は奮戦したがかなわず、脱出して蝦夷(北海道)に向かうことにした。
その時義経は家臣の鈴木三郎重家に対し紀州の家族のもとに帰るよう申し渡した。
しかし鈴木は鎌倉の追っ手が来ることは避けられないと思い、遺品を自分の従者に渡して家族に届けさせ討ち死にしたと伝えさせた。
その後秋田に移り住み、現在まで子孫が続いている。
鈴木家には実家に送った手紙(主君義経と、弟の亀井六郎の消息を伝えたもの)の写しが残されている。
★九郎岳 (北海道・乙部町)
義経一行が海を渡り最初にたどり着いた北海道の地とされる。
一行はここで2年を過ごしたが、義経が去った後一足違いで静御前が到着。
静御前は悲嘆のあまり川に身を投げてしまった。
地元の人達は義経が静御前を待ちわびた峠を「姫待ち峠」、 その山、乙部岳を「九郎岳」、 さらにそこを水源とする川を「姫川」と呼ぶようになった。★義経の遺児の行方
仙台藩伊達氏の祖とされる常陸入道念西の息子、伊佐為宗は奥州合戦に参陣した際、源義経の郎党だった常陸坊海尊の依頼で義経の子の経若をひきとって養育、中村城主(現在の栃木県真岡市)にしたと伝わる。
★常陸坊海尊のその後
奥州で生き延びた常陸坊海尊は仙人となり、400年以上生きて義経伝説を語り伝えたと言われる。
1682年、常陸坊海尊(清悦仙人)を名のる老人が青麻(あおさ)神社(宮城県仙台市)を訪れ、病気治療の霊験をあらわしたとして祭神に加えられた。
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東北で活躍した武将たち【平安時代】2015.11.06 Friday
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◆伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ・生没年不明)
大和政権が対蝦夷最前線基地として伊治城(現在の宮城県栗原市)を造営した際、朝廷に服属して協力した地元出身の蝦夷でその功績により伊治公の姓を与えられた。
しかし次第に朝廷への不満がつのり、宝亀11年(780)宝亀の乱(砦麻呂の乱)を起こし朝廷軍を破って南進し国府の多賀城を制圧したとも言われている。
藤原小黒麻呂によって乱は翌年には鎮圧、終息に向かったものと思われるが詳細は不明。砦麻呂の消息も不明となっている。
その後も朝廷と蝦夷との間には長期にわたって対立が続き、アテルイの戦いへと引き継がれた。
◆大墓公阿弖流為( たものきみあてるい ・?〜802)
陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)地方を拠点としていた豪族。
789年朝廷から派遣された5万人規模の征討軍を巣伏のたたかいで迎え討ち、大勝利した際リーダーとして活躍。
続く794年、朝廷は10万人で攻撃したが決定的な勝利をおさめることはできなかった。
801年、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)ひきいる朝廷軍4万人が胆沢一帯を平定。
翌802年田村麻呂が大量の移民を送り込んで胆沢城を造営。阿弖流為と副将の母礼(もれ)は仲間500人を連れて投降。
その後京都に連行され大阪で処刑された。
◆安倍氏 (?〜1062)
現在の岩手県内陸部を拠点とした豪族で出自は諸説あり。
安倍頼時(生年不詳〜1057)の代に最も勢力を広げた。
前九年の役(1051〜1062)で源氏と結んだ清原氏に滅ぼされる。
◆清原氏 (?〜1087)
出羽国の在庁官人を務めた豪族で出自は諸説あり。
清少納言はこの一族とされる。
清原武則の時代に前九年の役で安倍氏を倒すが、続く後三年の役(1083〜1087)で源氏と結んだ藤原清衡に滅ぼされる。
◆奥州藤原氏 (1087〜1189)
現在の岩手県平泉を拠点として陸奥国・出羽国一帯に勢力を持った豪族で開祖は藤原清衡。
清衡の父、藤原経清は陸奥国亘理郡の豪族で母は安倍頼時の娘。
4代(約100年)に渡って栄えたが奥州合戦で鎌倉の源頼朝軍に敗れ滅んだ。
(上写真) 世界遺産・平泉 中尊寺金色堂
鬼剣舞(おにけんばい)
(上写真) 北上・みちのく芸能まつりにて
北上市周辺に伝わる「鬼剣舞」は701〜704年頃に修験の祖・役の行者小角が念仏を広めるため踊ったのが始まりという説や、806〜810年頃に羽黒山の法印・善行院荒沢鬼渡大明神で悪霊退散・衆生済度の念仏踊りとして伝えられたのが始まりともいわれているそうです。
東北の歴史の中で長い間伝えられている芸能のひとつです。
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東北で活躍した武将たち【鎌倉時代】2015.11.06 Friday
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鎌倉時代に入ると守護・地頭制度により源頼朝から所領を得た関東御家人を中心とする武士が、いっせいに東北に入り支配を始めました。
当時の地頭の多くは実際に東北には住まず、代わりの者を立てて年貢の徴収等を行なったようです。
それ以前の武士の殆どは没落するか御家人の家臣となりました。
◆葛西三郎清重(1161?〜1238?)
下総国葛西(東京都葛飾区)を本拠とする関東御家人で桓武平氏の流れを汲む一族。
奥州では平泉周辺の5郡2保(岩手県)と牡鹿郡(宮城県石巻市)を領地とした。
初代の奥州惣奉行として御家人に対する統率権、警察権を持った。
頼朝の死後、北条氏が政権を握っていく中で多くの御家人が粛清されたが、葛西氏、井沢氏(留守氏)はうまく立ち回って持続した。
その後葛西氏は6代清貞の時に東北に土着したとされ、豊臣秀吉の「奥州仕置き」で滅ぶまで続いた。
(上写真)
東京都葛飾区にある葛西清重の居館跡(西光寺)
◆井沢家景(?〜1221)
京都公卿・藤原道兼の子孫。
多賀国府・留守職(行政官)をつとめ、葛西清重と共に奥州惣奉行として東北地方行政のトップとなる。
葛西清重は殆ど東北にいなかったため井沢が主に行政を行った模様。
岩切城主(宮城県仙台市)で留守氏の祖。(子孫が留守氏を名乗るようになった)
留守氏は「奥州仕置」によって本領を没収され、以後伊達家家臣となった。
◆安藤(安東)・秋田氏(鎌倉時代初期〜戦国時代)
東北古代からの氏族で安倍貞任(奥州安倍氏)の子孫とも言われるがが諸説あり。
鎌倉初期に蝦夷管領に任命されたと言われ、1589年まで蝦夷と蝦夷島(北海道)を管轄していたとされる。
津軽を本拠地とし鎌倉後期には代官職を務め、陸奥国・出羽国の北部に勢力を広げた。
戦国時代に秋田氏を名乗り、江戸時代には秋田に転封された佐竹氏と入れ替わりで常陸宍戸に移され、1645年に陸奥三春藩主(福島県)となって幕末まで続いた。
◆安藤季長(すえなが・生没年不明)
津軽地方の地頭代。
1318年頃蝦夷代官職などをめぐって兄弟と内紛になり安東氏の乱を起こした。
この乱は鎌倉幕府の腐敗が原因とも言われ幕府は乱を調停できずに泥沼化。
1328年に和議となったが幕府の威信を低下させた大事件だった。
◆陸奥相馬氏 (鎌倉時代初期〜江戸時代)
下総国(千葉県)の千葉常胤の子孫.。平将門の子孫とも言われるが諸説あり。
奥州合戦に従軍して活躍し、陸奥行方郡(福島県)に所領を得た後移り住んで起こした氏族。
南北朝、戦国の動乱期を生き延びて江戸時代は相馬中村藩(福島県)として幕末まで続いた。
◆会津蘆名氏(鎌倉時代?-戦国時代)
相模国(神奈川県)の鎌倉御家人、三浦氏の子孫で桓武平氏系。
室町時代には会津守護を称した。1384年7代蘆名直盛が建てた黒川城が現在の若松城とされる。
最盛期は16代当主、蘆名盛氏の時代。天正元年(1573年)17代蘆名盛興は高玉金山を開山。
天正18年(1589年)、蘆名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に大敗、常陸に逃走して没落したが出羽角館(秋田県)に蘆名氏を再興。
江戸時代(1653年)、最後の当主・蘆名千鶴丸が3歳で事故死して家系は断絶、滅亡した。
天海(徳川家康のブレイン)は蘆名氏一族の出身と言われる。◆伊達氏 (鎌倉時代初期〜江戸時代)
常陸国伊佐郡(茨城県)、または下野国中村荘(栃木県)を本領としたが、奥州合戦の戦功によって伊達郡(福島県)を与えられ、地頭職となり伊達を称した。
その後米沢(山形県)、岩出山(宮城県)と居城を移し、江戸時代には仙台藩(宮城県)の大名として幕末まで続いた。
◆奥州南部氏 (鎌倉時代初期〜江戸時代)
始祖の南部三郎光行は南部郷(山梨県)を本領とする甲斐源氏の子孫。
奥州合戦の功績により陸奥国糠部(青森県〜岩手県)5郡の領地を得て入国したとされる。
その後急速に領地を拡大、江戸時代には盛岡藩(岩手県)の大名として幕末まで続いた。
◆小野寺氏 (鎌倉時代初期〜戦国時代)
平安時代後半に現栃木市に拠点を置いていた氏族とされ、奥州合戦で戦功を上げ出羽雄勝郡(秋田県)などの地頭職となった。
はじめ惣領は鎌倉に常駐していたが南北朝時代になって出羽雄勝郡に移ったと見られる。
戦国時代に入ると雄勝・平鹿・仙北三郡から由利郡・河辺郡・最上郡にまで勢力を広げる有力武将になり、横手城に拠点を移して最盛期を迎えた。
1590年の奥州仕置きでは所領の3分の1を削られ、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に味方したため改易とされた。
末裔にあたる小野寺十内秀和はのちに赤穂浅野家に仕え、忠臣蔵のひとりとして吉良邸の討ち入りに参加したとされる。
(上写真)
鎌倉時代の鎧(赤糸威大鎧・あかいとおどしおおよろい)
(福島県歴史博物館所蔵)
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東北で活躍した武将たち【南北朝時代-戦国時代】2015.11.06 Friday
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◆北畠顕家(1318-1338)
京都の公卿・武将。
鎌倉幕府滅亡後、陸奥守となり多賀城に入る。(1333)
北条氏残党を津軽で討ち取り鎮守府将軍に任命される。(1335)
南朝方として東北の軍勢を率い各地で足利尊氏(あしかがたかうじ)方と戦うが敗れ、南部師行らとともに21歳で討ち死にした。
◆奥州斯波氏(鎌倉時代〜)
陸奥国斯波郡(岩手県盛岡市の一部及び紫波郡)を所領とした足利氏の一族で大崎氏、最上氏はこの分流。
斯波家長(1321〜1337)は1335年奥州管領に任ぜられ岩手県紫波郡に入るが1337年足利尊氏との戦いで敗れ17歳で討ち死にした。
◆石塔義房(生没年不明)
駿河と伊豆で守護職を務めた後、1337年足利尊氏により奥州総大将として陸奥国に派遣された。
南朝方と戦ったが、その後反尊氏に転向。
各地を転戦したが尊氏が京都を掌握すると消息を絶った。
◆吉良貞家(生没年不明)
三河国幡豆郡(愛知県)出身。
1345年奥州管領として奥州国府に着任し南朝軍と戦う。
1351年南北朝内乱期における奥州最大の激戦とされる岩切城合戦で、もう一方の管領・畠山国氏と対戦して勝利。
足利尊氏の勢いを強めた。
◆斯波家兼(1308-1356)
吉良貞家没後、混乱の中で吉良満家・二本松国詮・石塔義憲・斯波家兼の4人が同時に管領を名乗り並立(四管領時代)。
その抗争の中、斯波家兼が次第に優位となり管領(後の探題)世襲の道を開く。
居城は中新田城(宮城県加美町)。
◆津軽曾我氏(鎌倉時代〜室町時代)
陸奥国平賀郡 (青森県平川市) を拠点に活躍した地頭。
曽我貞光は足利尊氏方で戦い大奮戦したとされるが、戦国時代南部氏の津軽制覇の際滅んだとされている。
◆大崎氏(室町時代〜戦国時代)
斯波氏の一族で奥州管領(探題)として陸奥大崎5郡(宮城県)を支配したが、周辺の有力国人(伊達氏、蘆名氏など)の力が強く次第に存在感を失っていった。
1589年摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達政宗が名実共に奥州の覇者になると伊達氏に臣従。
豊臣秀吉の奥州仕置きでは所領を没収され、1590年葛西大崎一揆で滅亡した。
◆最上氏(室町時代〜江戸時代初期)
斯波氏の一族で最上郡(山形県山形市)に居城し羽州探題を務めた。
11代最上義光の妹、義姫は伊達政宗の母。
戦国大名として活躍し江戸時代初期には57万石の最盛期を迎えたが、内紛により改易となった。
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東北で活躍した武将たち【戦国時代-江戸時代】2015.11.07 Saturday
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◆九戸政実(くのへまさざね・1536-1591)
南部氏の一族で九戸城(岩手県)主。
武将としての器量に優れていたとされ、政実の代に大幅に勢力を広げた。
1582年南部氏に後継争いが起きると南部氏と対立。
豊臣秀吉の奥州仕置きにより取りつぶしになった領地の残党を集め城に立てこもる。
南部氏が秀吉に援軍を要請すると秀吉は6〜7万の軍を送ったが苦戦。
謀略によって降伏させ政実は斬首、九戸氏は滅亡した。(九戸政実の乱)
豊臣はこの戦いで全国統一を達成した。◆津軽為信(つがるためのぶ・1550-1608)
出自は大浦為則(ためのり)の弟の子、または久慈治義の二男で大浦為則の養子になったなど諸説あり。(大浦氏も久慈氏も南部氏の一族) 為信の代に津軽氏を名のった。
1567年、為則の跡を継ぐと岩木川中流部の大浦城(青森県弘前市)に拠点を移した。
1571年、突如石川城(現弘前市)を攻めて石川高信(南部信直の父)を自害させ南部氏に対し公然と叛旗をかかげる。
また秋田の安東愛季(ちかすえ)らに持ちかけて南部氏を牽制させ、南部氏の一大拠点大光寺城を攻略、さらに南部氏の客将北畠氏を滅ぼし、南津軽一帯を支配下に置いた。
その後豊臣秀吉に臣従し弘前藩(4万7千石)初代藩主になった。
関ヶ原の合戦後、嫡男の信健が石田三成の遺児・石田重成と妹の辰姫を津軽に連れ返ると徳川に内緒で2人を迎え入れた。重成はその後弘前藩の重臣となり妹の辰姫は二代目藩主の妻になった。
◆南部信直(なんぶのぶなお・1546-1599)
南部氏第26代当主。盛岡藩(岩手県)10万石の開祖。
1565年、南部氏第24代当主・南部晴政の養子として三戸城に入城。
1582年25代当主が急死すると九戸氏と南部氏の間で相続争いが起きる。
最終的に信直の相続が決まったが、その後氏族内の内部抗争に苦しめられた。
豊臣秀吉による奥州仕置き後、葛西大崎一揆や和賀・稗貫一揆、九戸政実の乱が起きると豊臣の援軍を得てこれを鎮圧。
その後三戸城を出て福岡城(九戸城から改名)に入る。
さらに守りを固めるため盛岡城を築城。後を長男の利直が継いだ。◆最上義光(もがみよしあき・1546-1614)
最上氏第11代当主。出羽山形藩(山形県)の初代藩主。
義光の妹・義姫は伊達政宗の母で義光は政宗の伯父にあたる。
義光は最上家の家督を継ぐと諸氏が乱立していた出羽の支配に乗り出し成功。
1588年、豊臣秀吉により羽州探題に任命される。
娘の駒姫は15歳で秀吉の甥の秀次の側室にとられ、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際連座で処刑された。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。◆上杉景勝(うえすぎかげかつ・1556-1623)
上杉氏は京の公家(藤原氏の流れ)から武士になった氏族。
1580年上杉謙信(けんしん)の甥の景勝は後継争いに勝利し当主となる。
1589年越後などの他、出羽庄内(山形県)を領有。
1595年豊臣家の大老に任ぜられ、五大老と呼ばれるようになる。
1598年豊臣秀吉により会津に移封され、120万石余を領有した。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に敵対したため、米沢藩(山形県)30万石に減封され米沢城を本拠に初代米沢藩主となった。◆上杉鷹山(うえすぎようざん・1751-1822)
米沢藩中興の祖。
1760年八代目米沢藩主の養子となり、17歳で九代目米沢藩主となる。
傾いた米沢藩を救うため「大検約令」を発し、役人の贅沢や無駄を正した。
1800年には飢饉に備え「かてもの」の発行を命じる。
穀物と混ぜたりあるいはその代用品として食用に用いることができる草木果実80種類の特徴とその調理法等を解説。
その結果天保の飢饉(1833-1839)では藩内で餓死者を出さなかったと言われる。
また農政を改革し、教育を進め、産業を発展させていく。
名言に「成せば為る 成さねば為らぬ 何事も 為らぬは人の 成さぬなりけり」がある。
◆相馬義胤(そうまよしたね1548-1635)
陸奥相馬氏第16代当主。
相馬中村藩(6万石)初代藩主相馬利胤の父。正妻は伊達家の娘。
若い頃から伊達氏などの武家と合従連衡しながら抗争を続け、何度か領地没収の危機を乗り越えた。
特に伊達氏とは因縁の仲で死後甲冑を着て武器を持ったまま伊達の領地の方角を向き埋葬されたという。
現在も行われている「相馬野馬追(のまおい)」は平将門(たいらのまさかど)が始めた軍事演習が起源とされる。◆伊達政宗(だてまさむね・1567-1636)
伊達氏の第17代当主で仙台藩(62万石)の初代藩主。
16代当主・伊達輝宗の嫡男。母は最上義光の妹の義姫。
正室は三春城主田村家(福島県・坂上田村麻呂の子孫と言われる)の娘の愛姫(めごひめ)。
戦の戦後処理にあたっていた父を人質に取られ、敵もろとも父を射殺、小田原参陣の際の内紛で母に毒をもられ弟を殺害、等のエピソードが残されているが、後に弟は殺されておらず母の毒殺計画もなく策略だったことがわかった。1590年豊臣秀吉の奥州仕置の際、悪政に抵抗した葛西大崎一揆では、2500人以上の一揆勢を処刑。
1592年に始まった朝鮮出兵に従軍した際、政宗が部隊に着させた装束が派手だったため、京都で噂となり「伊達者」という言葉が生まれた。
江戸時代に入った1613年、ヨーロッパとの通商をめざして日本初の西洋型軍船サン・ファン・バウティスタ号を建造し派遣したが失敗に終わった。
1615年大阪夏の陣では真田幸村から子供(大八と阿梅)を託され、保護した。(上写真) サン・ファン・バウティスタ号(宮城県石巻市)
◆佐竹義宣(さたけよしのぶ・1570-1633)
佐竹氏は新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
義宣は佐竹氏19代当主。
常陸(茨城県)の城主時代豊臣秀吉の下で活躍し六大将と呼ばれたが、関ヶ原の合戦に参陣しなかったため徳川によって出羽(秋田)に転封され、秋田藩20万石の初代藩主となった。◆保科正之(ほしなまさゆき・1611-1673)
徳川家康の孫にあたる。会津松平家初代。(松平姓を名乗ったのは3代からで、生涯保科姓だった。)
第3代将軍徳川家光の信任を得、信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、1643年陸奥会津藩初代藩主となる。
1668年、幕末まで続く『会津家訓十五箇条』を定め将軍家への忠誠を誓った。
水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と共に、江戸初期の三名君と呼ばれた。◆松平定信(まつだいらさだのぶ・1759-1829)
8代将軍徳川吉宗の孫。陸奥白河藩第3代藩主。
天明の飢饉(1782-1788)の際、食料を買い集め倹約をおこなって餓死者を出さずに藩政を立て直したと言われる。
この手腕を認められ1787年徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となり「寛政の改革」を行なった。
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百姓一揆【江戸時代】2015.11.12 Thursday
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信達(しんたつ)の大一揆(1749年)
★(上写真の文)
義民 斎藤彦内
百ケ日供養の碑
碑の裏面に一揆の顛末を記述したところ、
当時の代官によって削り取られた。
尚、墓所は本堂の裏にあります。
★(上写真右側の文)
宮代山王社にて密議
寛永二年(1749年)農民たちは、桑折代官所に何度も年貢減免の嘆願をしたが、逆に増税を言い渡された。憤怒した農民たちは、誰が発したか分からない廻状を各村々に廻し、もし留め置いた村は焼き払い、一命を申し受けるという厳しいもので、「村々百姓代の面々 来る二日の夜 子の刻を限り 信夫郡宮代の山王社地へ集合すべきものなり 両郡の百姓のため一大事の密議あり」と記され、伝達の速いことから、後に「天狗廻状」と呼ばれた。
十二月三日、朝より吹き荒れる風は、夜には静まり、音もなく降る小糠雪の中を、西より東より、三々五々、宮代村(現福島市宮代)の山王社に終結し、百余人の百姓代は皆、雪蓑を脱ぎ捨て、拝殿の廊下に集い、年貢減免の強訴を取り決めた。廻状は焼却し、その灰汁を結束の証として廻し飲みしたといわれている。
★(上写真左側の文)
三義民 産ケ沢にて最後の勇姿
宮代山王社での密議の取り決め通り、十二月十一日夜、一万六千八百余人の「天狗廻状騒動」農民大一揆は、桑折代官所を取り囲み、強訴要求を受け入れさせた。
桑折代官神山三郎左衛門と手代の土屋恵助は、一揆の首謀者を探す為、農民たちを次々と厳しく取り調べた。見かねた長倉村(現伊達町)の斎藤彦内は、すべての責任は我にありと自ら出頭したため、悶絶するほどの拷問を受け続けた。
さらに彦内の苦しみを救おうと、伊達崎村(現桑折町)の蓬田半左衛門(五十三才)、鎌田村(現福島市)の猪狩源七(三十三才)が自首し、苛酷な拷問を受けた。
三名はその苦しみに耐え、最後の一刻まで農民を救うため身代わりとなり、ついに最後は産ケ沢の河岸で斬首され、さらし首にされた。その時斎藤彦内は四十二才、妻と三人の子供がいたのである。義民と云われる由縁である。
斎藤彦内は当寺本堂裏に今も眠っている。
※信達とは陸奥国・信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)の地域を指します。
1749年桑折代官所に赴任して来た代官、神山三郎左衛門は当時大凶作だったにもかかわらず厳しい年貢の取り立てを行ったため一揆が起こりました。
一揆は一部の要求を認めさせ、その後各地に飛び火して農民政策の改革につながっていったと言われています。
犠牲になった三人のために建てられた供養碑は今も大事に守られています。
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歴代県知事【明治〜現代】2015.11.13 Friday
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青森県 山形県 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 出身県 人数 出身県 人数 出身県 人数 出身県 人数 熊 本 7 青 森 6 福 井 5 山 形 5 鹿児島 5 鹿児島 3 兵 庫 1 佐 賀 3 長 野 3 兵 庫 3 兵 庫 3 宮 城 3 福 岡 3 石 川 2 愛 知 1 高 知 2 青森1 1 山 形 2 石川1 1 秋 田 1 岡山1 1 愛 媛 1 岐阜1 1 岡 山 1 群馬1 1 香 川 1 高知1 1 岐 阜 1 佐賀1 1 京 都 1 静岡1 1 埼 玉 1 千葉1 1 静 岡 1 東京1 1 千 葉 1 徳島1 1 東 京 1 鳥取1 1 栃 木 1 広島1 1 鳥 取 1 福島1 1 長 崎 1 山口1 1 計39 長 野 1 奈 良 1 宮城県 新 潟 1 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 広 島 1 出身県 人数 出身県 人数 福 岡 1 鹿児島 5 宮 城 5 山 口 1 計52 熊 本 3 大 阪 2 岡 山 2 埼 玉 2 秋田県 群 馬 2 千 葉 1 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 高 知 2 出身県 人数 出身県 人数 富 山 2 東 京 9 秋 田 5 広 島 2 佐 賀 4 新 潟 1 三 重 2 山 口 3 山 口 2 愛 媛 2 愛 媛 1 岡 山 2 石 川 1 熊 本 2 茨 城 1 鳥 取 2 岐 阜 1 長 崎 2 静 岡 1 新 潟 2 島 根 1 福 井 2 千 葉 1 三 重 2 栃 木 1 宮 城 2 長 野 1 愛 知 1 兵 庫 1 香 川 1 広 島 1 鹿児島 1 福 井 1 群 馬 1 山 形 1 高 知 1 和歌山 1 計46 滋 賀 1 広 島 1 兵 庫 1 福島県 福 岡 1 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 福 島 1 出身県 人数 出身県 人数 宮 崎 1 計51 山 形 6 福 島 6 佐 賀 4 岡 山 1 岩手県 岡 山 3 長 野 1 官選知事(明治憲法) 公選知事(現憲法) 鹿児島 3 出身県 人数 出身県 人数 熊 本 3 富 山 3 岩 手 6 高 知 3 鹿児島 2 東 京 1 京 都 2 福 岡 2 長 野 2 茨 城 1 兵 庫 2 愛 媛 1 福 島 2 大 分 1 三 重 2 熊 本 1 愛 知 1 佐 賀 1 大分 1 静 岡 1 岐 阜 1 島 根 1 東京 1 栃 木 1 栃木 1 長 崎 1 鳥取 1 長 野 1 新 潟 1 新 潟 1 長崎 1 広 島 1 奈良 1 福 島 1 広 島 1 北海道 1 宮 崎 1 三 重 1 山 口 1 計52 山 形 1 山 口 1 計31
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都道府県別戦没者数【第2次世界大戦】2015.11.30 Monday
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県 名 戦死者数 出 典 1940年の人口 人口比 北海道 40,850
(沖縄戦10,850、南方諸地域30,000)北霊碑
(沖縄県糸満市米須)3,272,718 約1. 2% 青森県 19,847
(沖縄戦544、南方諸地域19,301)みちのくの塔
(沖縄県糸満市字摩文仁)1,000,509 約2% 岩手県 34,860
(沖縄戦 653、南方諸地域 20,697、他 13,510)岩手の塔
(沖縄県糸満市字摩文仁)1,095,793 約3. 2% 秋田県 12,432
(沖縄戦 432、南方諸地域 12,000)千秋の塔
(沖縄県糸満市字摩文仁)1,052,275 約1. 2% 山形県 40,834
(沖縄戦 765、南方諸地域 25,612、他 14,457)山形の塔
(沖縄県糸満市字真栄里)1,119,338 約3. 6% 宮城県 45,500余
(沖縄戦 582、他44918)宮城之塔
(沖縄県糸満市字摩文仁ハンタ上原)1,271,238 約3. 6% 福島県
66,304
(沖縄戦 942、南方諸地域 23,947、他 41,415)ふくしまの塔
(沖縄県糸満市字摩文仁)1,625,521 約4. 1%
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